OMIOの投書箱2

年末年始の雑記帳です。

社説

●またもまかり通った政治恩赦
やはり基本認識は「押なつ問題と絡んだ外国人登録法違反のほかは、形式的なものが多い」のようだ。
法務省は、今回の恩赦に当たって、戦後初めての皇室弔事による恩赦なので、先例になり得るものにしたい、との方針だったという。
・恩赦制度は、古い時代の尾をひきずっており、このためさまざまな矛盾点を含んでいる。
△徳政令、相対済令、棄捐令(借金の取り消し)など、また天人相関思想との関連は?

「徳政(とくせい)」とは天人相関思想に基づき、代替わり或いは災害などに伴い改元が行われた際に天皇が行う貧民救済活動や神事の興行(儀式遂行とその財源たる所領等の保障)、訴訟処理などの社会政策のことであり、「新制」とも呼ばれる。既売却地・質流れ地の無償返付,所領や債権債務についての訴訟(雑訴)の円滑処理などを行うことを通じて、旧体制へ復帰を図る目的があった。


鎌倉時代に入ると災害や戦乱などの社会的混乱が貴族社会にも及び始め、遂に承久の乱では朝廷軍が敗北して上皇流罪が行われるなど、貴族社会が存続の危機に差し掛かっていることが明白となった。こうした中で、朝廷内では現実的な政治に目を向ける事で求心力を回復させて昔の権威を取り戻そうとする動きが盛んになった。「徳政」はその路線の上に推進された政策であり、徳政令はそうした政策の一つである(徳政≠徳政令)という事を留意する必要がある。

■参考文献■
黒田基樹『百姓から見た戦国大名』(ちくま新書、2006年) ISBN 4480063137

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E6%94%BF%E4%BB%A4

棄捐令(きえんれい)は、江戸時代幕府が財政難に陥った旗本・御家人を救済するために、債権者に対し債権放棄・債務繰延べをさせた武士救済法令。


旗本・御家人は石高が元から低い上に相給などの導入によってその財政基盤は弱体であり、早くも幕府成立から30年後の徳川家光の時代にはその窮乏が問題視されていた。幕府は多少の地方直と倹約令の徹底によって乗り切ろうとしたが、江戸居住が義務付けられていた旗本・御家人は必然的に消費者にならざるを得なかったために時を追うにつれて問題は深刻化するようになった。


松平定信寛政の改革の一環として1789年(寛政元年)9月に発したのが最初で、1784年(天明4年)以前の借金は債務免除とし、それ以後のものは低利返済とした。この時棄捐された金額は約120万両(現在の金額に換算して約1兆円)であったといわれ、幕府の年間支出とほぼ同額だったと言われている。1843年(天保14年)の時にも、水野忠邦天保の改革の一環として発令している。このときは、借金を無利子・年賦返済としている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%84%E6%8D%90%E4%BB%A4